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何も信じてはいけない


この世にある物事、政治、経済、書籍、対人関係の

すべは、マジックショーであると、権威あるヴェーダーに

書かれてあります。

マジックは、人を欺くためのトリックがあり、そのネタが

あると言うことを暗示しているのです。

しかし、マジックであるがゆえに、そのトリックもネタ元も

公開されないよう秘密裏に運ばれるのがショーです。

この世がマジックショーであるなら、この世界に真実を

求める人がいとするなら、期待外れの結果しか得られ

ないでしょう。

だからと言って、この世は腐敗しているとか、巨悪が

支配している、苦悩に満ちている、などと思うことは、

それも間違いです。そのように腐敗しているとか諸悪に

満ち満ちていると思うのは、個々の感受性や感性が

異なるからです。

なぜ個々の感性が異なるのか、その説明は要らない

でしょう。しかしなぜ、この世はマジックショーだと言われる

のですか?それを自分の力で考察した人はいますか?

なぜマジックショーなのか。

私たちが見たり聞いたりすることの知覚力と行為と記憶それ

自体がマーヤであり、マジックショーだからです。このマーヤを

見破ること、マジックショーのトリックを見破ることによって、

人は事実に関する知覚力を持つのです。この知覚力の無い

人は、なんにでも騙されるでしょう。いとも簡単に。

例えば、あなたが書店へ行き、スピリチュアル関係の本を

探したとします。この場合、自分が信じるものを本物だと

思うその感性は、何処から来るのですか?

同じく、信じられないと判断する感性は、何処から来る

のですか?

それは、過去に仕入れた無選択な記憶、無選別に蓄積

したサムスカーラの判断です。人は無差別な記憶によって、

物事や人や書籍を判断しているというのが現実です。

つまりあなたが何かを信じるとき、その信じることが

何ら科学的根拠を持たないだろうということです。

あなたが信じない本は、購入することは滅多にあり

ません。そして、買った書籍が何の役にも立たなかった

と知るのは、お金を払った後です。

書籍であれ、人であれ、投機であれ、なぜそれらを

信じるのですか?本当の知覚力を得るためには、

何であれ、誰であれ、信じてはダメなのです。

なにも信じなければ、裏切られることも起こらない。

人を信じなければ、失恋も離婚も起りえないのです。

投機の損失も起こらない。そういう日浦も失恋体験、

離婚経験、損失体験が当然ながらあります。

もし失恋や離婚に伴う痛みが初めから分かるなら、

それを回避するかも知れない。

しかし

恋は盲目と言われるように、知覚力を失い、さらには

マリファナかLSDを飲まされた人のように、恍惚状態に

なって、それに没入するのです。目覚めた時の後味の

悪さったら、ありゃあしない(笑)

書籍を見て、それを買わなかった場合、その本を

信じていない、と言うことですが、あなたが信じない

書籍が真実のものであるかも知れないのです。

信じることと疑いは、相反することのように見える

かも知れないけれど、それらは、一枚のコインの

裏と表の関係と同じく、表裏一体だと言うことを

どうして見抜かないのですか・・・?

もし裏を無くそうとして、一枚の硬貨を二つに分けた

としても、その二枚になった硬貨は、やはり裏と表が

現れます。

信じること、疑うことは、一枚の硬貨の裏表であって、

同じ性質のものです。何かをすぐさま信じる人は、

素直な人と呼ばれるかも知れないけれど、残念ながら

愚かな人であり、なんでも疑う人と同質の愚かさを

持っているのです。

これを読んで、腹を立てる読者はいるのでしょうか?

いたら遠慮なく非難してください。

実相とも呼ぶ事実を直接的に知覚したなら、どこに信じる

必要があると言うのですか?信じる、という根拠なき感性は

それを疑うべきです。と言うより排除すべきです。

同じく、疑うという愚かな感性が起こることもあり得ない

でしょう。

では、どうすればいいのでしょう・・・?

その答えは、何も誰も信じてはいけない、と言うこと。

その相対的な感性の疑うことも辞めることです。

そうすれば、心の静粛がやってきて、真実と偽りを

分別する知覚が起こるのです。知覚力は人生の

羅針盤とも言えるでしょう。

羅針盤なき身体と言う船は、漂流するものです。

あてもなく漂流するのも楽しい、という人達が

繰り広げるのがこの世のマジックショーです。
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「正しく見る」ということについて

「正しく見る」ということ。

僕にとってそのことは、人生における主要テーマの一つではなかったかと感じます。

というのは、

約10年前に起きたある人生の転機はそのテーマに取り組んでいたことによってもたらされたからです。

ある人生の転機とは、「信仰心の破棄」でした。

17歳の頃からとある新興宗教の刊行する書籍に傾倒し始めた僕は、20代に入り実際にその団体に入信しました。

その時期は、自身の打ち立てた信仰心をベースにした、悲喜こもごもの出来事を経験しました。

30代に差し掛かった頃、その悲喜こもごもの経験により、自身の心を見つめる意識が深化してきたのだろうと思います。

「正しく見る」ということについて自分の中に一つの芽生えがありました。

その芽生えとは、



「正しく見る」ということの“正しく”とは、人の目による価値判断を介したものでは無く、「人の価値判断を去った“自由な眼差し”ではないか」ということでした。

当時に感じていたものをもう少し具体的に言葉で書き起こすと、

一つの物事について、前からも後ろからも、上も下も、
囚われや思い込みなく、あらゆる角度から自由に見ることが出来る視点。

さらには、物事に裏と表があるならば、裏側から見ることも可能なごく客観的な心。

もっと言えば、物事の起こりと結果、因果についても同様に自由に見通すことの出来る認識力。

個々人の囚われを排した、上記のような言わば無私なる自由自在の視点を獲得すること。

それが「正しく見る」ということの本質ではないのだろうか。



…そんなことが当時、僕の中で芽生えていた認識でした。

そうした芽生えに至ることの約2年ぐらい前ですが、

まだ日浦さんがネットのいくつかのサイトに登壇する前、

僕自身が、在籍していた宗教団体のことを扱うインターネット掲示板に出入りすることとなったのも、振り返ってみると、

まだ上記の「芽生え」が思いとして言葉として確立出来ない種子の状態だった頃、その種子が発芽してゆく場所を求めていたからだろうと思います。

自己の内心を思うままに書くことが出来るのは匿名のネット掲示板の最大のメリットの一つであり、日常において内心の自由をアウトプット出来ない方の避難場所だという側面もあったかもしれません。

僕ももちろん、日常生活の場でもそうですし、宗教団体の場ではなおさらそうした芽生えを果すことは期待出来ませんでした。

以上のような一連の道のりは、
その後に聞くこととなった、日浦さんが仰る「ビデオカメラのレンズの如き眼」という教えを受け止めることにおいて、自分の中で良い土壌となっていたのではないかと感じています。

日浦さんが登壇された頃、

僕はネット掲示板上で自身の信仰心の破棄を宣言する内容を書き留めました。

内心の芽生えが、当時の信仰の核心である教義自体に横たわる不可能性を捉えました。

当時はまだ、教祖が説いていた中心的教義のはっきりとした誤りを認識出来てはいませんでしたが、

しかし、それらを一旦白紙に戻して、もう一度やり直してみるということはむしろ「正しく見る」という教えにに何ら抵触しないだろうという論理を抱いていました。

なので僕は、

その宗教団体の教義に盛り込まれた「正しく見る」をより実践的に遂行するため、胸を張って信仰心を白紙に戻したのです。

それは、誰しもに内在する尊きものに対する畏敬の念への否定ではなく、

属していた団体への否定感情でもなく、

「教えに忠実であろうとするならば、一旦その信仰を白紙に戻すこともプロセスとして必要な場合もある」

との結論でした。

つまり、僕はその団体の説く教義を深く突き詰めることよって、その団体への信仰を解除したのでした。


・・・

最後にちょっとジョークを言いますが、

盗人でも「泥棒はいけないことだ」とうそぶくことが出来る訳ですが、

それを盗賊団の親分が言ったとして、その思いを真面目に聞いた子分がいたならどうでしょうか?

子分は「なるほど」と思い、足を洗ってしまうのです。(笑)

盗人が言うセリフでも、それが真実から盗んだ言葉であるなら、その言葉に内在する力によって虚構が暴かれることがある訳ですね。( *´艸`)フフフ

Re: 「正しく見る」ということについて

> 「正しく見る」ということ。
>
> 僕にとってそのことは、人生における主要テーマの一つではなかったかと感じます。
>
> というのは、
>
> 約10年前に起きたある人生の転機はそのテーマに取り組んでいたことによって
もたらされたからです。
>
> ある人生の転機とは、「信仰心の破棄」でした。
>
> 17歳の頃からとある新興宗教の刊行する書籍に傾倒し始めた僕は、20代に入り
実際にその団体に入信しました。
>
> その時期は、自身の打ち立てた信仰心をベースにした、悲喜こもごもの出来事を
経験しました。
>
> 30代に差し掛かった頃、その悲喜こもごもの経験により、自身の心を見つめる
意識が深化してきたのだろうと思います。
>
> 「正しく見る」ということについて自分の中に一つの芽生えがありました。
>
> その芽生えとは、
>
>
>
> 「正しく見る」ということの“正しく”とは、人の目による価値判断を
介したものでは無く、「人の価値判断を去った“自由な眼差し”ではないか」
ということでした。
>
> 当時に感じていたものをもう少し具体的に言葉で書き起こすと、
>
> 一つの物事について、前からも後ろからも、上も下も、
> 囚われや思い込みなく、あらゆる角度から自由に見ることが出来る視点。
>
> さらには、物事に裏と表があるならば、裏側から見ることも可能なごく
客観的な心。
>
> もっと言えば、物事の起こりと結果、因果についても同様に自由に見通す
ことの出来る認識力。
>
> 個々人の囚われを排した、上記のような言わば無私なる自由自在の視点を
獲得すること。
>
> それが「正しく見る」ということの本質ではないのだろうか。
>
>
>
> …そんなことが当時、僕の中で芽生えていた認識でした。
>
> そうした芽生えに至ることの約2年ぐらい前ですが、
>
> まだ日浦さんがネットのいくつかのサイトに登壇する前、
>
> 僕自身が、在籍していた宗教団体のことを扱うインターネット掲示板に
出入りすることとなったのも、振り返ってみると、
>
> まだ上記の「芽生え」が思いとして言葉として確立出来ない種子の状態
だった頃、その種子が発芽してゆく場所を求めていたからだろうと思います。
>
> 自己の内心を思うままに書くことが出来るのは匿名のネット掲示板の
最大のメリットの一つであり、日常において内心の自由をアウトプット
出来ない方の避難場所だという側面もあったかもしれません。
>
> 僕ももちろん、日常生活の場でもそうですし、宗教団体の場ではなお
さらそうした芽生えを果すことは期待出来ませんでした。
>
> 以上のような一連の道のりは、
> その後に聞くこととなった、日浦さんが仰る「ビデオカメラのレンズの
如き眼」という教えを受け止めることにおいて、自分の中で良い土壌と
なっていたのではないかと感じています。
>
> 日浦さんが登壇された頃、
>
> 僕はネット掲示板上で自身の信仰心の破棄を宣言する内容を書き
留めました。内心の芽生えが、当時の信仰の核心である教義自体に
横たわる不可能性を捉えました。
>
> 当時はまだ、教祖が説いていた中心的教義のはっきりとした誤りを
認識出来てはいませんでしたが、
>
> しかし、それらを一旦白紙に戻して、もう一度やり直してみるという
ことはむしろ「正しく見る」という教えにに何ら抵触しないだろうという
論理を抱いていました。
>
> なので僕は、
>
> その宗教団体の教義に盛り込まれた「正しく見る」をより実践的に遂行
するため、胸を張って信仰心を白紙に戻したのです。
> それは、誰しもに内在する尊きものに対する畏敬の念への否定ではなく、
> 属していた団体への否定感情でもなく、
> 「教えに忠実であろうとするならば、一旦その信仰を白紙に戻すことも
プロセスとして必要な場合もある」
>
> との結論でした。
>
> つまり、僕はその団体の説く教義を深く突き詰めることよって、
その団体への信仰を解除したのでした。
>
>
> ・・・
>
> 最後にちょっとジョークを言いますが、
>
> 盗人でも「泥棒はいけないことだ」とうそぶくことが出来る訳ですが、
>
> それを盗賊団の親分が言ったとして、その思いを真面目に聞いた子分が
いたならどうでしょうか?
>
> 子分は「なるほど」と思い、足を洗ってしまうのです。(笑)
>
> 盗人が言うセリフでも、それが真実から盗んだ言葉であるなら、
その言葉に内在する力によって虚構が暴かれることがある訳ですね。( *´艸`)フフフ
プロフィール

代表:日浦祐次

Author:代表:日浦祐次
職業・建築家
東京都西新宿在住
事務局担当:長野匡也

身体内に閉じ込められて、
無数の条件付けに束縛された
人間としての私たちを

本当の自由へ導くための真理が
多くの偽り情報に覆われ、
真実は覆い隠されているのだと
聖典類に書かれてあります。
それゆえ、この世界は、マジック
ショーなのだと言うのです。

無数の束縛と無知という覆いを
取り去った裸の真理は、
求める人達に正しく提供される
べきであり、その目標へ到達する
正しい知識と方法を伝えることが
求められているという思いから、

「サハスラーラ新宿」
瞑想スクールを始めました。
http://sinnjyuku-saharsra.jimdo.com/

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